探幽と『探幽縮図』

幼少の頃より天賦の才をうたわれた狩野探幽(1602〜1674)は、11才で徳川家康に謁見、15歳より幕府の御用絵師として表舞台に立ち、73歳で世を去るまで旺盛な筆力を振るった江戸絵画の巨匠です。江戸城内の障壁画、徳川家の霊廟(日光、上野、芝)装飾、大阪城、二条城、名古屋城、その他大寺院の障壁画等の製作に腕を揮いました。その活躍は江戸狩野派の地位を確固たるものとし、また後の絵画界に大きな影響を与えています。

『探幽縮図』は狩野探幽が中国や日本の古画を縮小模写したもので、現存するだけでも膨大な量が残されています。それは探幽自らの絵画研究の意味合いはもちろんのこと、狩野派全体の絵画制作の重要な資料となるものでした。模した絵の脇にはその絵画の作者、評価、年号等が書き付けてあり、現代の美術史研究の重要な資料ともなっています。
本覚院の『絹本着色 恵果阿闍梨像図』を写した縮図には、「御長五尺六寸 寛文三 五月廿七日 春深御もりして御出」と書かれています。


西方院春深道朝のこと

本覚院は、行空上人が建立した十二の院が次第にまとまり、現在の寺院形態となってきた過程があります。
十二院の中には「西生院(今も名を残しています)」「西方院」などがあります。『絹本着色 恵果阿闍梨像図』は西生院に伝来したもので、一方『探幽縮図』の中に書き込まれている「春深御もりして御出」の春深は、当時の西方院住職で探幽の大師流(書)の師にあたります。
なお『紀伊続風土記』によれば、西生院には「恵果堂」があり『恵果阿闍梨像図』がその本尊となっていたことがわかります。

春深道朝(生年不明〜1676)は西方院第十七世で、能書家として知られていたことが残された数少ない文献資料や作品からも窺えます。大師流は弘法大師の書法を伝える流派で、二系統あるうち西方院春深の流れが古様を伝える正統派だと云われています。

『絹本着色 恵果阿闍梨像図』は探幽がわざわざ「御長五尺六寸」と記しているようにかなり大きな画像で、簡単に持ち運べるものではありません。したがって「春深御もりして御出」は春深が高野山を下山して画像を探幽のもとへ運んだというよりは、高野山に滞在していた探幽に閲覧させたと考えるほうが自然だと思われます。

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